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歪んだパズルのつなげ方

悲恋姫†無双

第七話 偽りのまほろば

 
 鳳統さんは消耗品の買出しに来ていたのだそうで、包帯やら薬やら色々な物を積んだ荷馬車と護衛の兵士の人達がいる街外れの待ち合わせ場所に案内してくれました。
 旅を始めてから、お兄様を除いて初めての会話が楽に出来る人で・・・だから、お兄様に相談もせずにあんな事を言ってしまったのだと思います。
 でも、反対はされないのは判っていました、反対されるのなら、もっと前のお話の途中でされているはずです。
 劉備さんのところには、関羽さん張飛さんと言う二枚看板がいて、鳳統さんの他に孔明さんという軍師がいるそうです。

 その人達をお兄様に近付け無い様に、朧は頑張らないといけません。

 お兄様の思考は広く深く・・・とても異質です、常に冷たい眼をして人々を近付け様となさいません、それ故に凡百の人間には何を考えているのか解らず、誤解され、恐れられ、一層距離を取られます。
 劉備軍の方々が皆そうであるなら良いのですが、先ず鳳統さんと、そのお友達と言っていた軍師の方も、きっとお兄様の異才を見抜いてくるでしょう。
 その位の才覚を持っていなければ、武名高い関羽、張飛の二人が率いるとはいえ、市井の人達を寄せ集めただけの義勇軍で、犠牲を抑え、士気を保ち、連戦しながら、規律を守らせると言うのは不可能です。
 朧に出来ないかと問われれば出来ますが、そんな綱渡りのような気苦労ばかり多い事を、進んでやる気にはなれません。

 そんな事を進んでするのは、理知に歪んだ異常者か、狂信者のどちらかです。
 鳳統さんとそのお友達さんの二人は狂信者です、水鏡女学院の主席と次席という肩書きがあれば、理知に歪んだ異常者が満足するには、もっと良い選択肢が幾らでも有ります、それなのに立ち上げたばかりの弱小義勇軍で軍師になった理由は一つしか考えられません。

 それは即ち、その主を熱狂的に信奉しているからです。

 そう言う人は目的の為に、いえその信仰の為にありとあらゆる物を切り捨てられる『強さ』があります、信仰の為なら財産、名誉、親友、我が身すら切り捨てるでしょう。
 悩んだり迷ったり躊躇ったりするのは、全て自身の精神を崩壊させない為にしている、自分に対する嘘でしかないのです。

 お兄様は、狂信者の振りをしています。
 悩んだり迷ったり躊躇ったりしていないと、自分に嘘をついて・・・とても『弱い』存在なのです。
 お兄様は、朧を切り捨てられる気でいます・・・出来るはずがないのに、切り捨てた朧の未来を考えて、酷く傷ついた眼をしたのを、朧は知っています・・・そこで解ってしまったのです。
 だから、同じ狂信者の朧がお兄様を護るのです、例えそれが周りの全員を塵にしても、お兄様が助かるのなら、朧にとっては正解なのですから。


 ゴトゴトと荷馬車が道を進みます、黙り込んでいた朧を心配そうな顔をして、鳳統さんとお兄様が見ているのに気付いて、微笑み返しました。
 口元を隠すと言うのは良い案ですが、お兄様は嘘がとっても下手な方です。
 こんなに嘘が下手なのに、戦闘ではどうしてあんなに巧みに虚実を織り交ぜられるのか不思議でなりません。

 本当の事を言うと、つい最近まで、絶対あれは妖術か何かだと信じていました。

 間近で何度も見てきた朧がそうなのですから、今まで立ち合った人には、妖術にしか見えないと自信を持って言い切れます。
「あわわ・・・仲達さんのお兄さんは、その・・・武の方は・・・」
「自分と朧の身を守れる程度だ」
 相変わらず謎掛けで返すお兄様に鳳統さんは気が付かない、慣用句的に『大した腕では無い』という意味だからそれも正解です。
 でも・・・鳳統さん、今・・・試されているんです、貴女の言葉の重さが。
 そうでなければ、お兄様は黙り、朧が答えるに任せてしまう、武なんて口で語る物では無いのだからと。
「あわわ・・・それは、相手が、どれ位まで・・・でしゅか、ぅぅ」

 あ・・・鳳統さんは気付いた・・・

「一対一なら、絶対負けませんよ。ねっ、お兄様」
 でも、私は鳳統さんを警戒するのを忘れて、嬉しさの余り笑み零れていた。
 お兄様が『自分と朧を』と言ってくれた、朧も護ると言ってくれたのだ。
 思わず胸に飛び込んでしまう、鳳統さんは朧の行動に驚いていたが、次第に優しい笑みを浮かべていく。
 その笑みが、逆に朧の警戒心を呼び起こした。
「あの、あの・・・どうして朧達を、誘ったんですか」
 そう聞くと、鳳統さんは酷く狼狽し「あわわ・・・」と、慌てふためく。お兄様が苦笑を噛み殺しているのが、視界には入っていないが何となく伝わってきた。
 でも、どう考えても義勇軍に軍師四人は多すぎるし、さっきの質問でお兄様の武を量りかねているのは確定しました。
 朧なら、関羽・張飛の二人に及ばずとも、一線級の武将を集めます。

「あわわ・・・そ、それはお二人が味方でないのが怖かった・・・と言うのが正直なところです」
 味方で無いのが恐いと言うなら、まだ味方では無い朧達は、鳳統さんにとって怖いと言う事なのでしょうか。
「ふぇっ、ぁぅぁぅ・・・朧は恐くなんて無いのですよぅ」
「あわわわっ仲達ちゃんが恐い外見と言う事じゃ無いでしゅ、えっと、えっと・・・他の陣営でその才を振るわれると、私たち弱小勢力は抑えられちゃうから。
 本当は、黄巾討伐の後も・・・」
 やっぱり鳳統さんは、お兄様の異才に気が付いているのです。
「ぁぅぁぅ・・・それはダメです。
 そんなに一緒にいたら、皆お兄様の事が好きになってしまいます」
 クシャッと優しく頭を撫でながら
「それは杞憂だ朧」

 冷たいお声で言うお兄様・・・自覚が無いのが危険なんです。



 最も大きな天幕の中では四人の少女達が、お茶を飲んで談笑していた。
 その様は本当に此処が義勇軍の本陣かと疑う程に、楽しげで優しい空気に満たされていた。
 最初に気が付いたのは赤髪の小さい少女、ほぼ遅れることなく黒髪の姉らしき少女が気付き、偃月刀を手にしたのは警戒心の強さよりも責任感故なのだろう、険しい表情になり油断無く此方を伺っている。
 対して赤髪の少女は少し怪訝な表情をして首を傾げたが、好奇心に満ちた目で此方を見てくる。
「お帰り雛里ちゃん・・・その、後ろの人達はどなた」
 一番奥に座っていた柔らかな雰囲気を纏った少女が最初に口を開いた、彼女が劉備だった筈だ、記憶とこの世界がずれてでもいない限りは。
「あわわ・・・た、ただいまもどりました桃香様。こちらのお二人は、お手伝いして頂けるよう、わわ私がお願いして・・・一緒に来て頂いた方でしゅ」
 仲間の前でもこれだけ噛めるのは、一種の才能かもしれない。
 朧もその才能はかなり高い方だが・・・やはりこの二人似た者同士か。
「ぁぅぅ・・・お兄様、今すごーく真面目な顔で失礼な事、考えてませんでしたか」
 顔には出ていないはずだが、何故かあっさりと見抜かれて、抱き上げた腕の中で頬を膨らます。
「朧の才能の豊かさを褒めていた」
 嘘をつく時のコツは、真実をほんの少しだけ入れること。
「ぁぅぁぅ・・・誤魔化されておきますよぅ」
 小声で遣り取りしていると、黒髪の少女・関羽があからさまに値踏みする様な目で見つつ口を開く。
「で、どういった御仁なのだ、此方の二人は」
 言葉遣いが丁寧なので許されるが、礼を欠くぎりぎりの所をしてくる。
 本人もそれを自覚しているので、敢えて此方も四の五の言うまでも無い。
 態々諍いを起こしに此処まで来たわけでもなく、話を進めるには関羽は優秀な進行役だろう。

「あわわ・・・ひ、一言で説明すると・・・神算鬼謀の持ち主、です」
 劉備と関羽はその言葉に、ほうと感心した顔をし表情を和らげるが、警戒を解くつもりは無い様だった。
 張飛が更に首を傾げる中、神算鬼謀の代名詞とも言える諸葛孔明唯一人が顔色を変えた。
 評価とは絶対的な物では無く、相対的な物であると、彼女は明確に理解していた証。
「雛里ちゃんが、そう、思ったの」
 幼い顔に似合わないほど、思い詰めた様な表情から出て来たのは、表情にも負けない程に追い詰められた様な声。
 短い言葉を、かみ締める様に口にする。
「朱里ちゃん・・・うん、あのね『最終地点は冀州』これだけで朱里ちゃんなら解るよね」
 孔明の持っていた陶器の湯飲みが、派手な音を立てて床で砕け散った。
 みなの注目が金髪の小さな少女に集まるも、本人はそれに気付く余裕は無い。

「それは・・・どっちが・・・」

 低く抑えられた声は、幼さを残す少女には酷く不釣合いな物に聞こえた。

 しかし、その姿を見ていた中に、それに気付く者は誰も居なかった。

 孔明の眼は揺れず、強い光を抱いている。

 豪傑と名高い関羽、張飛の二人すらその眼の気迫に呑まれていた。

「・・・違うよ朱里ちゃん、二人とも・・・だよ」
 鳳統だけが変わらず自然体で答えながら、湯飲みの破片を拾い集める。
 彼女だけが、今の孔明を目の前にする以上の恐怖を、既に経験していたが為に。
「そんな事が・・・細作を出している訳でも、戦場に居る訳でも無いのに・・・同じ所まで。
 あ、あの、今最有力な方を誰だと御考えですか」
 我に返った途端に、弾かれる様に質問を投げ掛けて来る孔明の後ろから穏やかな静止の声が掛かる。
「待って朱里ちゃん。
 初めまして、私の名前は劉備、字を玄徳と言います。遠い所を良くいらして下さいました。
 見ての通り義勇軍の野営地ですが、出来る限りの御持て成しをしてお迎えしたいと思います。
 どうか、部下の非礼を御許し下さい」
 立ち上がり、穏やかな微笑を浮かべ深く頭を下げる劉備、義勇軍とはいえ流石に一軍を率いる人物と、感じさせる何かがその姿には確かに有った。
 関羽、孔明の非礼を侘び、主に頭を下げられては此方は頷くしかない、存外強か・・・そこもまた、流石か。
「謝罪無用、ただこの子に椅子を」
 目礼を返しつつそう言うと、関羽が自分の椅子を机を挟んだ劉備の正面に据えて、自分は劉備のやや後方に下がり。孔明がその椅子の前に手早く菓子と茶を出してくれる。
 朧が少し不満そうな目を向けてくるが、仕える事になるかもしれない相手と話すのに、抱き抱えられたままと言う訳には行かないのを判っているので、口に出しては何も言ってこない。
 そっと、朧の小さな体を椅子に座らせると、その後ろに立ち腕を組む。

「朧、オレは名乗ってもいいのか」
 声を潜めること無くそう告げると、椅子の上で振り向いた朧が大声で否定する。
 その目が『約束したじゃないですか』と、責めるように悲しげに揺れる。
「だ、ダメに決まってます。
 ぁぅぁぅ・・・劉備さん、わ、わわ、私は・・・司馬懿、字を仲達と言います。あの、それで・・・お兄様は真名しかお持ちでありません。なので、お名前は伝えません」
「なっ、無礼ではないか」
 俯く朧に、追い討ちを掛けるように関羽が声を上げる。
 名を名乗られたなら、名乗り返すのが当然。その常識は朧にも解っている、それをしないのは関羽の言う通り無礼な事だと言うのも、十分解っているのだが、朧にはそこは譲れないのだ。
「愛紗ちゃん。
 仲達ちゃん、で良いかな。それじゃさっきのこっちの無礼を無かった事にして、あいこって事で良いかな」
 関羽を手で制し、朧に微笑み掛ける劉備に、明るい笑みを浮かべ「はい」と小さく頷く朧。鳳統は孔明と朧の間に椅子を運んで来て此方を伺うが、一つ頷き返すと、お茶の入った湯飲みを手渡してくれてから、そそくさとその椅子に座る。

「それじゃ自己紹介から・・・」
 気を取り直して、と言わんばかりの仕切り直しは、どうも上っ滑りしている。
 劉備に朧を庇われた借りを、借りたままでいるのも不味いか。
「不要・・・だな朧」
 あちらのペースに持ち込まれるのも、危険だ。今は大人しくなっているが、孔明は明らかに、今の朧より権謀術数に長けている。
「ぁぅぁぅ・・・あちらの黒髪のお姉さんが関雲長さん、赤髪のお姉さんが張翼徳さん、あちらの水鏡女学院の制服のお姉さんが諸葛孔明さん、です」
 先程とは逆に孔明と鳳統以外が、異口同音に感嘆の声を上げる中、朧が首を傾げる。
 何に驚いているのか、本気で解らないのだ・・・そんな朧の姿を見た軍師二人が、恐ろしげに朧を見る目だけが、和やかに戻った空気の中で妙に異質だった。
 その異質さが、だんだんと劉備軍の姿を見せて来る。

 それは、妙に歪な姿だった・・・此処は何かがおかしい。

 華琳のやり方が絶対的に正しいと言う気は無い、そもそも組織構造に於いて絶対的に正しいと言う物など有り得ないのだ、ということは流石にオレでも解る。
 それは解るのだが、此処は何かがおかしい。

 そう、法が無く・・・ただ劉備玄徳が有るだけ、なのだ。

 そこを明確に掴むまでは、鳳統の誘いには頷けない。
 そこを探るためにも、会話をさせてみるか。
「彼女の質問がまだ残っている」
 そう朧に促すと、僅かに不安な色を滲ませた目が見上げて来る。
「ぁぅ・・・でもお兄様、何故こんな事を聞くのか朧には解らないので、間違っていないか心配です」
 そう聞いて来るのも朧の気持ちを考えれば当然で、そんな当り前の事を聞くには、何か別の意図があって、自分はそれに気が付いていないのでは無いかと不安がっているのだ。
 その発言を聞いて、孔明の目が変わったのをオレは見逃さなかった。
 鳳統の評価は正当で・・・朧は自分と同種同格の存在と認めたのだ。
「雛里ちゃんが、なんでこの二人を頼み込んでまで連れてきたのか、解ったよ。先生ならこの子を『幼虎』って呼んでるんじゃないかな・・・」
「美周郎さんは亀じゃなくて虎をよこせって、言うと思うけど」
 朱里より、朧と少しだけ付き合いの長い鳳統は笑って冗談を返した、天下の四聖獣を冠するにたる軍師の一人に朧を認めたのだ。
 そして、その目は当然、次は後ろのオレに向けられ、『司馬仲達の鬼才は認めた、では貴方は』と強く語りかけて来る。
「どうやら雛里と朱里を唸らせる程の才覚を仲達殿が持っているというのは判りました、では貴方はどうなのでしょう」
 問い掛けと言うより詰問に近い言葉に、オレは少し関羽に好感を持つ。
 この子は参謀役なのだ、誰もが言いにくい事や、わざと反対意見を言って問題を明確にする、嫌な役回りをやっている。
「あの、愛紗さん・・・仲達ちゃんのお兄さんは、仲達ちゃんの十手先は読んでるみたいです、けど」
 咄嗟に止めに入る雛里、その判断は正しい。オレは要らん、朧だけ来いと言われても此方は頷かない。
「しかしな雛里、我々としては、彼が仲達殿に話を促す所しか見ていないのだ。お前と仲達殿二人の推挙と言うなら信じはする、だが、それは二人の目を信じるだけになってしまわんか」
 二人のやり取りをつまらなさそうに眺めていた張飛が、足をぶらぶらさせて、あからさまにどちらでもよさそうにしているのを、劉備が気付いて苦笑いしている。
 劉備の意識が張飛に向かい、判断的に正しい雛里の意見を遮る関羽を誰も止められない。

 ・・・あぁ、これか歪だと感じた原因は。

 つまり此処は仲良し集団なのだ、それも悪い事に仲良く成りきっていない。
 善意と不文律でそれなりに上手く纏めていく、そう言う集団なのだ、劉備玄徳という唯一の接点を持った。
 故に明確な法も無く律も無い。
 文武に秀でた関羽が、武将軍師の意見を取り纏め、それが大きく間違っていず、劉備が口を挟まなければ、それが方針として採られる。

 ・・・では、関羽の判断が間違ったら。

 誰かが、不文律を敢て無視して押し通したら。

 不満を溜め込んで、誰かが暴走し出したら。

 それを止めるものを持たない集団は、一体どうなるのか。

 仮に一度は止めたとして、その後再び仲良しごっこをするのだろうか、お互いの本音に戦々恐々としながら。
 劉備には王たる器も資質もある、しかしこの集団に巻き込まれるのは・・・にこにこ微笑みながら、味方の屍を踏み越えるこの陣営に、属するなど。

「矜持に反する、と言うものさ」

 誰にも聞こえない、口の中での呟き。
 まるでそれに答えるかの様に、不満げな声が上がる。
「愛紗、どっちでもいいのだ。ついて来たいなら、一緒に来ればいいだけなのだ」
 子供故の単刀直入にして単純な発言は、今までの話について行けない不満の表明で、直訳するならば『もっと私に気を使え、私をかまえ』と言うところなのだが、劉備軍の他の面々は一瞬にして顔の色を失う。
「ば、馬鹿、鈴々お前は何を考えている」
 そう、たった一つの言葉で、崩れる。
「お兄様・・・朧は・・・いま、少し安堵しております」
 穏やかに微笑みながら口にした朧の予想外の発言に、皆の視線が集まる。
「だって・・・お兄様の真名を言わなくて、正解だったのですから」
 そう言って無邪気に微笑む朧に、劉備軍は屈辱に唇を噛み締める。
 ・・・それは最大限の屈辱と言ってもいい、今この場でで無ければ、余りに無礼な物言いに、劉備の面子を護るために、関羽は激怒してみせなければならない発言。

『お前らは、真名を預けるに値しない』

 そう、面と向かって言ってのけたのだ、誰よりも幼い朧が。
 しかし、誰も怒りを表すことは許されない。
 何故なら、請われて態々足を運んだ先で、『別にお前らは必要無いが、ついて来たいのなら、許してやる』と先に侮辱したのは劉備軍の将で、それに対して幼い朧ですら、怒りを飲み込んでみせたのだ。
「此処までの様だ、我らは去るとしよう」
 朧の体を抱き上げ、軽く顎を引くだけの会釈をする。何かを思い出したかのように、孔明に向かい手招きをすると、屈み込んでそっとその耳元に口を寄せる。
「茶菓子の礼を忘れていた。
 曹操が六を取る。四であたって勝つ策は我が胸の内に、諸葛孔明、周公瑾の策は『天の御使い』に見破られる事、努々忘れるな」
 真っ青になって目を見開く孔明の体が、誰の目にも明らかな程震え出し、我が身を抱きしめてその場にへたり込むのを尻目に、無表情のまま立ち上がり、劉備に目礼を再度して背を向ける。
「あの・・・数々の無礼をお許し下さい。重ねて無礼をお許しいただけるなら・・・」

「嫌・・・です」
 小さいがきっぱりした拒絶に、劉備も表情を曇らせて俯くしかなくなる。
「では、さらばだ」
 天幕を抜けて義勇軍の陣地を去って行く二人の姿に、劉備は深々と頭を下げた。
 あの二人がこのことをふれてまわれば、これ以降の義勇兵の参加が絶えてもおかしくない失態、儒教社会に於いて礼を失する対応の致命的さは計り知れない・・・この義勇軍の生殺与奪権は、あの二人に握られていると言ってもいい。
「旗を掲げたばかりで・・・もうダメなの、こんな所で」
 悲しみに打ち拉がれる劉備の耳を、雛里の大声が叩く。

「朱里ちゃん、朱里ちゃんしっかりして」
 慌てて背後を振り返り駆け寄る劉備は、恐怖に身を震わせぼろぼろ涙を零す朱里と、その肩を掴んで珍しく大声を上げる雛里の姿を見た。
 有り得ない光景・・・ほんの少し前まで優しい空気が流れていた場所とは思えない。
「雛里ちゃん、私・・・恐いよ・・・」
 雛里に抱きついて震える朱里。
「十手先なんて、過小評価・・・しすぎ、だよ・・・あれは、人じゃない・・・」
 そのまま糸の切れた人形の様に倒れる朱里を、慌てて抱きとめた劉備の耳に、ほんの微かな、息が漏れるような呟きが届く。
「どうして・・・あの時、鈴々を斬らなかったの・・・バカ」
 それは誰に向けた言葉だったのか、その呟きは、劉備の心にほんの小さな引っかき傷をつけた。


   

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